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社会福祉の観点から、特に高齢者介護における現場での実情をリアルにお伝えします

川崎殺傷事件と元農水次官の事件を受けて

令和元年6月5日配信 カウンセラー 藤原秀博

※本記事は、カウンセラー藤原秀博氏の依頼にて、記事を掲載しております

 

 

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藤原秀博 著 現代のひきこもり 生活学のすゝめ


【川崎殺傷事件と元農水次官の事件を受けてのコメント】
(令和元年6月5日配信 カウンセラー 藤原秀博)

まずは被害者の方々にご冥福を御祈り申し上げます。 そして私も、加害者に対して怒りを感じていた人の 一人です。まずその気持ちが一番強いということを大前提においた上で私のコメントを目に通していただけたら幸いです。あまりに理不尽で悲しい事件の被害者の方々に対して、心を痛めております。

そして、元引きこもりの当事者でカウンセラーの活動をしている私としては、「引きこもり系=犯罪者予備軍」というレッテルが広がらないかということも危惧しております。実は、引きこもりは「動かない状態ではなく動けない状態」です。病気なのか環境なのか…何らかの原因で追い込まれていて、引きこもるしかない状態なのです。犯人と似たような境遇にある人に対してまで、排除や差別的な対応を多くの人がしてしまうと、ただ本当に社会に馴染めず動けないで苦しんでいる人々まで傷つけて追い込んでしまう危険性が高くなると思います。現実に私のもとには、今回の川崎の事件で社会的な声を聞いて、「自分も犯罪者に見られてるようで外に出るのが余計に怖くなった」と話し、自己嫌悪の毎日を送る「引きこもり系のクライアント」さんが複数います。また家族の方からも「うちの子も事件を起こすのではないか不安でならない」と言った相談が寄せられています。
しかし、引きこもりの仲間たちに共通してることは、「本来自分が一番安心できる場所(自宅)にいるのがベストなのに、外に向かって犯行に至るということは考えにくい」と、私は思っています。ただ、「引きこもり本人がやってみようと思える解決策を示せていない段階」で、外に出されてしまうかもしれないといった「不安」や「刺激」だけを与えてしまうと、本人は危機的な恐怖を抱いてしまいます。ましてや、家族や周囲が引きこもり当事者に寄り添うというよりは、無理解で無神経な結論ありきのアプローチをしてしまったら、なおのこと本人は絶望感を抱きます。それは実は、必死に浮輪につかまって生き残ろうとしている「泳げない人間」に対して、浮輪を離せ!と言っているような残酷なことなのです。引きこもりは生き方が分からない、社会に馴染めない苦しさから身を守るための一時的な対処手段でもあります。本人に生きる力がないのか、病的な要因があるのか、またはパワハラやイジメなど環境的に過酷なのか。その原因は人それぞれですが、とにもかくにも本人が生き残るためにとっているコンディション状態像なのです。よく考えてみてください。家族や周りからも承認されない引きこもりを、怠けたいという理由だけで本人が心から望んで続けるでしょうか。人間には承認欲求があるのですから、本人が望んで引きこもっているように見えても、実は引きこもる以外の生き残る手段が見つかっていないだけなのです。
ではどうしたらいいのでしょうか。いきなり就労には付けない状態の当事者にとって、今の引きこもり状態の自分を受け入れて相談にのってくれる人や場所にSOSを発信することが一番の鍵になります。そして家族の人も我が子を心配するならば、まず家族の人自身が引きこもりにならないようにどうか外部に相談をしてみてください。相談する人や場所は、同じような境遇を生き抜いている家族会や当事者団体、公的な相談機関が望ましいと思います。そういった場所で本人も家族も本音や弱音を吹き出して、「自分だけが苦しいわけじゃなかったんだ」という共感と愛を体感してほしいと思います。そして、そこから今まで蓄積されてきた様々な解決策を知って、自分に合った希望の道を見つけていってほしいと願っています。
自分に合った解決策に取り組んでいる過程で、自分の操縦方法を確立していき、共に歩める仲間を作っていく。そうすれば、苦しい引きこもり生活から、自分の人生に責任を持った『楽しいインドアライフ』を送る自分に不思議と変わっていることに気付くでしょう。私や仲間たちが生き証人です。

世論についての話に戻りますが、犯人への排除的な発言に対して頭ごなしに反対するつもりはありません。私には「一人で死ね」や「不良品」のような発言をする人の気持ちの中に、「被害者を救済したいという強い思い」が含まれていることも十分に理解しているつもりです。実際に私は、川崎の事件のニュースを見た時に加害者をボロクソに言いました(自宅内だけですが…)。また私がかつて不良たちから集団暴行を受けたり、詐欺にあった時、仲間が「藤原さんに危害を加えた奴らをぶん殴りたい・殺したい!」とまで言ってくれて、まるで自分のことのように感情移入して味方してくれたことが凄く嬉しくて、勇気づけられました。だからそのような声を否定するつもりは私にはありません。
しかし、「一人で死ね発言」のような気持ちは、被害者に対して労りのようなメッセージになることがあったとしても、公の場で発信すべきではないと私個人は考えています。本当は加害者も死ななくて済む、つまりは加害者を生まない愛の溢れた社会作りを目指していくことが真の解決策ではないでしょうか。奇麗事のように感じる人も多いかもしれませんが、本当はああいう加害者を生み出さないためにはどうしたらいいのかを考えるべきだと思っています。確かに、「一人で死ね」発言のように排除することは、一時的な安全策・解決策にはなり得ると思います。しかしそれは、テロにあった後に戦争をしかけろ!と相手国の子供まで攻撃してしまうようなものではないでしょうか。
飛躍すぎた例えに思えるかもしれませんが、感情をのっけて意見を示す場合、「恨みや怒りといったネガティブな感情」をぶつけてしまっては、該当者へ新たな恨みや怒り、怖れを生み出してしまい、さらに争いや不幸な事件を起こさせてしまうと思います。もし感情をのっけて意見をしたい時は、その感情はなるべく愛や慈しみであってほしいと私は願っています。

たとえその排除的な意見が極めて常識的で正論であったとしても、それを果たして公式に発言するべきなのでしょうか。私は、「加害者を排除するような正論の発信は公には控えるべき」という考えです。何故ならば、「常識的なことをやりたくても出来なくて悩んでいる人」「正論が出来なくて追い詰められている人」たちに対して、正論をぶつけてしまってもさらに追い詰めてしまうだけだからです。元農水省の人の事件も、うちの息子をどうしたらいいのかという悩みを相談・共有することよりも、父自らが子供を殺めてしまう方を選択してしまいました。川崎の犯人と我が子は決して全く同じ人間ではないはずなのに…。この背景には、引きこもり=犯罪者予備軍でダメな人という偏見が、今もまだ社会に根強くあって相談しずらかったり、救済手段も明確に広まっていないからではないでしょうか。

「一人で死ね」とか「引きこもりなんてグズ」のような意見を公に発信することよりも、こういう加害者を生まないように愛・慈しみのあるアプローチをしていくことが大切だと私は思います。加害者を生み出さないようにする取り組みこそが、理不尽で悲惨な被害者を生まない「真の解決策」になると考えています。
川崎の事件や元農水省の人の事件も、原因の一つに、犯人を犯行に追い込むような無言の圧力が社会背景にあったのではないでしょうか。外に結果を出した勝ち組ばかりを称賛するのではなくて、人間の弱い所を共有しあえる多様性のある社会作りへ。つまりは、一人一人が愛・慈しみというプラスな感情の方を他者へささげていくこと。引きこもっていても生きていていいよ。弱いところがあって社会に馴染めなくても生きていていいんだよというメッセージが社会に溢れていたら、このような事件は起きなかったかもしれないと思う日々です。そのためにも、愛のある実用的な支援システム作りが重要になってきます。不充分ではありますが、現在でも適切な相談場所や解決策はあります。まずは悩んでいる当事者や家族が、同じような境遇にあっても生き抜いてきた人たちに相談をして、これまで蓄積してきた解決のノウハウをぜひ聞いてほしい、ひきこもりの人権を尊重した支援者に出会ってほしいと切に願っています。そのためにもマスメディアが事件を報道する際に、同時に一般的な支援機関をきちんと紹介することが、苦しんでいる当事者や家族の命綱の役目を果すことを再認識してもらいたいと思っています。

令和時代に入りました。権力者や上級国民が支配しやすいように「作りあげた社会常識」まで、とらわれることはないと私は思います。一人で死ねといったようなネガティブな感情をのっけた「社会的常識」だけをぶつけるよりも、社会に馴染めないで苦しんでいる人たちと共有してほしい。何らかの要因が重なって、現代社会の中で常識的な行動ができなくて苦しんでいる人たちに、常識だけをぶつけるのではなく、加害者も被害者もいなくなって、皆が幸せになるように神様に祈ってほしい…そんな想いにふける私が甘ちゃんなのでしょうか。

今を生きる私たちは、焼野原からここまで恵まれた環境に整えてくれた先人たちには常に感謝をしなければいけません。これだけの経済発展を遂げなければ、今のような当たり前に人間らしい生活はできないのですから…。ただし忘れてはいけないことは、経済発展は人間のためにするべきです。経済のために人間が存在すべきではありません。あくまで私たち人間が主役で、経済の方に支配されてはならないと思います。時折、「義務を果たしていない連中には権利なんてない」という論理がまかり通って、どんな人にも無条件に人権があるという先進諸国では当たり前の常識が共有されていないと感じることがあります。そんな「当たり前の厳しさ」ばかりを社会に抱いてしまい、人間社会の「温かさ・美しさ」を日常生活で感じられなかったら、それは大変不幸なことです。はじめから犯罪目的のらくだけをしたい詐欺師は論外ですが、義務を果たせないくらい心も体も弱ってしまった人間には生きる価値すらないのでしょうか。金を生み出さない人はグズだとか、金をいくら稼げるかどうかで人の価値は決まるといったような、人間の幸せや目的が経済に重点を置きすぎてしまった社会では、人間そのものの生きている意味が軽視されている気がします。それに加えて、経済と人間の精神性の発展をどう繋げていくか。引きこもりが現実的にも将来的にも、どのように生活をしていくのか。より具体化した生活支援のラインプラン作りも必至です。
深刻な引きこもりは、それだけ自尊心を奪われて愛情を知らない環境で生きてきました。また愛のある有効な支援にも引っ掛からなかったからこそ、長期化して引きこもっているのだと思います。弱い所を共有しあえる多様性のある社会作りへ。人びとの心が豊かになることこそが生産性を高めて、行き詰まった経済発展にも繋がっていくことを我が国でも証明していくこと。今回の事件に対して、安易な勧善懲悪のストーリーに落とし込まれず、社会全体の課題に迫るという大事な部分を抜け落とさないで取り組みを続けてほしいと思っています。この事件の問題の複雑さを丁寧に見て『生き方や命の教育』という問題の本質を求めていく社会活動を、私も微力ながら進めていきたいです。苦しんでいる引きこもりの仲間たちが、本当の笑顔で「自分は引きこもりだよ」と、言える日まで…

 

<ひきこもりの公的相談窓口>

◎地域ひきこもり支援センター(厚労省

◎各自治体の保健所

◎各地域の社会福祉協議会

<家族会・当事者会情報>

◎KHJ全国ひきこもり家族会連合会

◎ひきこもりUX会議

◎ひきプラ(ひきこもりプラットフォーム)

◎ひきこもりアノニマス
など